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アリストテレス倫理学とは|幸福・徳・中庸の基礎

更新: 水上 理沙
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アリストテレス倫理学とは|幸福・徳・中庸の基礎

アリストテレス倫理学は、紀元前4世紀の古代ギリシャでアリストテレスがニコマコス倫理学にまとめた、体系的に書かれた最初の倫理学とされます。勇気を臆病と無謀の中間に置く中庸の考え方は、たとえば会議で意見を言うか黙るかという場面にもそのまま当てはまり、遠い古典ではなく自分の判断の話として立ち上がるはずです。

アリストテレス倫理学は、紀元前4世紀の古代ギリシャでアリストテレスが『ニコマコス倫理学』にまとめた、体系的に書かれた最初の倫理学とされます。
勇気を臆病と無謀の中間に置く中庸の考え方は、たとえば会議で意見を言うか黙るかという場面にもそのまま当てはまり、遠い古典ではなく自分の判断の話として立ち上がるはずです。
ここで問われるのは「どう行為すべきか」だけではなく、「どんな人になるべきか」であり、その視点が倫理学の出発点を形づくりました。
エウダイモニア、つまり一時の快楽ではない生の完成をどう捉えるかを軸に、徳と幸福の結びつきを順にたどっていきます。

アリストテレス倫理学とは何か|倫理学の出発点

項目 内容
名称 アリストテレス倫理学
中心著作 『ニコマコス倫理学』
成立時期 紀元前384年〜紀元前322年の古代ギリシャ
主要人物 アリストテレス、プラトン、ニコマコス
位置づけ 体系的に書かれた最初の倫理学とされる

アリストテレス倫理学は、善く生きるための条件を、習慣・性格・理性のはたらきから組み立てた思想です。
紀元前384年にトラキア地方スタゲイロスに生まれたアリストテレスは、アテナイのアカデメイアで約20年学び、のちにリュケイオンを創設しました。
その歩みをたどると、彼の倫理学が観念論ではなく、現実の人間がどう生きるかに深く根ざしていることが見えてきます。

アリストテレスの生涯とプラトンとの関係

アリストテレスは紀元前384年にトラキア地方スタゲイロスに生まれ、紀元前322年に没しました。
17〜18歳頃の紀元前367年にアテナイのプラトンの学園アカデメイアに入門し、約20年にわたって学んだことが、その後の思想を決定づけます。
プラトンの下で哲学の基礎を鍛えながら、師の『善のイデア』をそのまま受け取るのではなく、実際の人間がどのように善く生きるかへ関心を移していったのです。

この転換を押さえると、アリストテレス倫理学の輪郭がはっきりします。
たとえば高校の『倫理』で「中庸の人」とだけ覚えていた場合でも、そこは入口にすぎません。
彼の倫理学は、理想を掲げるだけでは届かない日常の選択や習慣に目を向け、現実の人間にとっての善を考える学問として立ち上がっているからです。

後年、アリストテレスはアテナイで自身の学園リュケイオンを創設し、「万学の祖」と呼ばれるほど広い領域を切り開きました。
プラトンのアカデメイアで学びつつ、それを超える独自の体系へ進んだ経緯は、倫理学だけでなく自然学や論理学にも通じる知的態度だと言えるでしょう。
師を継承しながら批判する、その姿勢こそが出発点です。

『ニコマコス倫理学』全10巻と書名の由来

アリストテレスの主著『ニコマコス倫理学』は全10巻からなり、最も完全な形で伝わり、後世に決定的影響を与えた倫理学の古典です。
ほかに『エウデモス倫理学』『大道徳学』もありますが、本記事で扱う中心は『ニコマコス倫理学』です。
体系的に倫理学を組み上げた最初の書として読まれてきたのは、この作品が人間の善、生き方、徳、幸福を一つの流れの中で扱っているからです。

書名のニコマコスは、息子の名に由来するとされ、一説には父の名とも伝えられます。
いずれにせよ、固有名が冠されている事実は、単なる題名以上の意味を持ちます。
巻ごとの議論は断片的ではなく、幸福から徳、思慮、観想へと積み上がっていくため、読者は「倫理学とは何を問う学問なのか」を段階的にたどることができます。

ℹ️ Note

『ニコマコス倫理学』を読むときは、勇気や節制だけに注目しないほうがよいです。第10巻まで含めて読むと、アリストテレスが最終的にどのような生を最高のものと見たのかまで見えてきます。

この構成を知っておくと、徳倫理学という一学派の説明と、倫理学そのものの出発点とを混同せずに済みます。
形而上学や四原因論の延長としてだけ理解するのでも足りません。
『ニコマコス倫理学』は、あくまで人間の実践を中心に据えた書物として読むべきなのです。

「倫理学(ethics)」という言葉の語源と意味

「倫理学(ethics)」という語は、習慣・性格を意味するギリシャ語エートス(ethos)に由来します。
アリストテレス自身も『徳の名はエートスからわずかに変化して生まれた』と述べており、この語源は彼の倫理学の中心をそのまま言い当てています。
徳は一度の判断で身につくものではなく、繰り返しの行為によって性格へ沈み込んでいくからです。

ここで大切なのは、ethics が抽象的な規則集ではないことです。
アリストテレスの関心は、どの行為が正しいかだけではなく、どのような習慣がその人を善い人にするのかに向いています。
勇気、節制、正義、思慮といった徳が、行為の積み重ねの中で形づくられるという見方は、現代の「正しい行為」を問う議論とは出発点が違います。

だからこそ、アリストテレス倫理学は「善き人・善き生」を問う学問として読まれます。
幸福(エウダイモニア)や中庸、理性的活動の議論へ進む前に、まず語源から性格形成の視点を押さえておくと理解が深まるでしょう。
日々のふるまいが人をつくる、という基本線を確認してみてください。

最高善としての幸福(エウダイモニア)とは

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は、第1巻の冒頭で「すべての技術・探究・行為は何らかの善(アガトン)を目指す」と置きます。
健康のために運動し、運動のために道具を作るように、行為は目的の連鎖をなしており、その終点にあるのがそれ自体のために求められる最高善です。
ここでアリストテレスが見ているのは、日々の選択をばらばらの出来事としてではなく、ひとつの方向をもつ流れとして捉える視点である。

すべての行為は善を目指す|目的論的な視点

目的の連鎖をたどると、他の何かの手段ではなく、それ自体のために求められる究極の目的に行き着きます。
アリストテレスはこれを最高善と呼び、そこに人間の生の最終的な着地点を見ました。
朝に働くのは何のためか、休むのは何のためか、と問いを重ねていくと、どこかで「幸せになるため」という答えに触れます。
この感覚を言葉にしたものが、彼の目的論なのです。

この見方が重要なのは、手段と目的を混同しなくなるからです。
富や名誉は役に立ちますが、いずれも別の何かに向かう途中のものにすぎません。
だからこそ、何が本当に最終目的なのかを確かめる必要がある。
そこを見失うと、忙しく動いていても、どこへ向かっているのかが曖昧なままになってしまいます。

エウダイモニアは「幸福」か「善く生きること」か

その最高善にアリストテレスが与えた名が、エウダイモニアです。
日本語では「幸福」と訳されますが、単なる快い気分ではなく、「善く生きること」や human flourishing、つまり人間としての開花を指すと考えるほうが実態に近いでしょう。
ここで大切なのは、エウダイモニアが一瞬の感情ではなく、一生涯にわたる善き活動の状態だという点です。

現代では幸福を「気分がいいこと」と結びつけがちです。
けれども、アリストテレスの幸福はもっと骨太で、暮らし全体の質を問います。
SNSの「いいね」が増えた瞬間の高揚や、買い物をした直後の満足は確かにあるでしょう。
ただ、それらはすぐに薄れてしまう。
エウダイモニアは、そうした揺れ動く感情より深いところにある生の充実を見ようとする概念です。

快楽・名誉・富が最高善になりえない理由

アリストテレスが快楽・名誉・富を最高善から外す理由は、それぞれの弱さが異なるからです。
快楽は動物にも共通し、人間固有の善とは言いにくい。
名誉は他者の評価に依存し、自分の内にその価値があるわけではない。
富はそもそも何かを得るための手段であり、富そのものを目的にしてしまうと、手段が目的を乗っ取ってしまいます。

この区別は、日常の実感と重ねるとわかりやすくなります。
SNSの「いいね」は名誉に似ていますが、他人の反応が消えれば価値も揺れますし、買い物の満足も快楽として長続きしません。
だからこそ、アリストテレスは次に「人間固有の機能」を問う必要があると考えたのです。
最高善は、外から与えられる評価でも、刹那の気分でもなく、理性的な活動をよく生き切ることにある。
ここが倫理学全体の出発点になります。

人間の機能(エルゴン)と徳に基づく活動

アリストテレスの機能(エルゴン)論証は、幸福を「気分の良さ」や「達成感」からではなく、人間という存在に固有の働きから定義しようとする議論です。
まず笛吹きや彫刻家、さらには目や手のような器官にも、それぞれにしか果たせない役割があると考えます。
そのうえで人間にも、人間としての固有の機能があるはずだと問い直す。
ここから幸福の輪郭が見えてきます。

機能(エルゴン)論証とは何か

この論証の出発点は、身近な道具や職能の理解にあります。
良い包丁とは、見た目が立派な包丁ではなく、よく切れる包丁です。
同じように、良い竪琴弾きはよく弾ける人であり、良い目はよく見え、良い手はよく掴む。
アリストテレスはこうした感覚を手がかりに、各々のものには固有の機能(エルゴン)があり、その機能をよく果たすことが「善」の基準になると考えました。
人間も例外ではなく、まずは何が人間に固有なのかを見極める必要があるわけです。

人間固有の機能は理性的な活動

植物には栄養を取り込み成長する働きがあり、動物にはそれに加えて感覚や欲求に応じて動く働きがあります。
ただ、それらは人間以外とも共有されるため、人間だけの固有性を説明しません。
そこでアリストテレスが見出すのが、理性(ロゴス)を伴う魂の活動です。
つまり、人間の本質は単に生きることや感じることではなく、理由を見分け、選び、考えながら生きるところにある。
ここに徳を結びつける土台が置かれます。

「徳に即した魂の活動」という幸福の定義

固有の機能を「よく」果たすことが、そのものの善です。
竪琴弾きの善が「よく弾くこと」なら、人間の善は理性的な魂の活動を「よく」行うことになる。
そこでアリストテレスは、幸福を「徳に即した魂の活動」と定義します。
ここでいう徳(アレテー)は、単なる気立ての良さではなく、理性にかなった働きを支える力です。
だから幸福は、偶然の成功ではなく、理性に導かれた活動の充実として理解されます。

ただし、その活動は一瞬のきらめきでは足りません。
アリストテレスが「一羽のツバメが春をつくるのではない」と言うのは、たった一日の親切や一度の成功だけで、その人の善や幸福を確定できないからです。
たとえば一日だけ親切にした人を、すぐに善い人と呼べるでしょうか。
むしろ重要なのは、そのあり方が一生涯にわたって続くかどうかです。
幸福を完全な一生涯の活動として捉える視点が、次に続く習慣づけによる徳の形成へとつながっていきます。

性格的徳と知性的徳|2種類の卓越性

アレテーとは、道徳的な善さだけを指す語ではなく、ものごとが本来もつ力を十分に発揮している状態、つまり「卓越性」を意味します。
ナイフの徳はよく切れること、馬の徳はよく走ることであり、人間の徳もまた、人間としてよく生きるための優れたはたらきです。
この語源を押さえると、徳が説教くさい道徳訓ではなく、能力やあり方の完成度を問う概念だと見えてきます。

アリストテレスはこのアレテーを、性格的徳と知性的徳に分けて考えました。
前者には勇気・節制・気前のよさ・正義のように、感情や行為のしかたに関わるものが入り、後者には知恵(ソフィア)や思慮(フロネーシス)のように、理性的に考え、判断する力が属します。
ここを区別すると、同じ「徳」でも、何を鍛える話なのかがはっきりします。

徳(アレテー)とは「卓越性」のこと

アレテーの核心は、善人らしさの前に「そのものが十分に機能しているか」にあります。
だからこそ、人間の徳を考えるときも、単に規範に従うかどうかではなく、人間らしい判断、行為、感情の扱いがどこまで洗練されているかを問うことになるのです。
アリストテレスの徳倫理が現代まで読まれるのは、この視点が人を一面的に裁かず、能力としての完成を見ようとするからでしょう。

性格的徳と知性的徳の違い

この二分類は、似ているようで身につき方が違います。
知性的徳は主に教育と経験によって育ち、何が真で何が望ましいかを見抜く力として伸びていきます。
性格的徳は主に習慣づけ(ethos)によって形づくられ、行為の反復のなかで安定した性質になります。
楽器やスポーツを思い浮かべるとわかりやすいでしょう。
説明を聞いただけで上達するのではなく、繰り返し練習して初めて体が動きを覚えます。

知識として「節制が大事」とわかっていても、目の前の誘惑で実行できないことがあります。
そこでは知性的徳だけでは足りず、欲望や反応の仕方まで含めて整える性格的徳が必要になります。
アレテーをこの二つに分けて見ると、理解しているのにできない、という人間のよくあるずれがなぜ起こるのかも腑に落ちるはずです。

徳は生まれつきではなく習慣で身につく

アリストテレスは、徳は生まれつき備わるのでも、自然に逆らって無理やり植えつけるのでもないと考えました。
自然が受け入れる素地があり、そこに習慣が形を与える、という見方です。
正しい行為を繰り返すことで正しい人になる、という発想は、「家を建てることで建築家になり、弾くことで竪琴奏者になる」という比喩と同じです。
徳は知識の所有ではなく、反復によって身につく実践の技術なのです。

だからこそ、子どもの躾けが重視されます。
どんな習慣を身につけるかが、どんな性格になるかを決めるからです。
早い段階でどのような行為に慣れるかは、その後の判断のしやすさや、感情の向きまで左右します。
徳を「あとから学ぶ教養」としてだけでなく、「毎日の振る舞いが作る性質」として捉えると、アリストテレスの議論はぐっと実践的に読めるでしょう。

中庸の徳|超過と不足の中間を選ぶ

中庸(メソテース)とは何か

アリストテレス倫理学でいう中庸(メソテース)は、感情や行為において、超過と不足のあいだに成り立つ性格的徳です。
しかもそれは、単に弱気と強気の真ん中を取る話ではなく、何を感じ、どう行うかをその場にふさわしく整える原理として示されます。
徳を悪徳の両側に置くこの見取り図こそ、彼の倫理学を理解するうえでいちばん有名な考え方でしょう。

中庸は「ほどほど」に抑える発想ではありません。
むしろ、感情を消すのでも、勢いよく出し切るのでもなく、欠けても出しすぎても崩れるところを見極める知恵です。
会議で発言するか黙るか迷う場面でも、無謀な言い切りと臆病な沈黙のあいだに、その場で必要な一言を探す感覚に近いです。

勇気・節制・気前のよさで見る中庸の徳

勇気は、恐れと自信にかかわる徳であり、臆病という不足と無謀という超過の中間にあります。
危険を見て縮こまりすぎれば行動できず、逆に危険を軽んじれば無理をしてしまう。
だから勇気とは、恐れをなくすことではなく、恐れを抱えたまま適切に踏み出す力なのです。
アリストテレスがこの構図を重視したのは、徳が性格の単なる印象ではなく、行為の選択をかたちづくるからです。

同じ枠組みは、節制や気前のよさにも当てはまります。
節制は快楽に対する放縦と無感覚の中間であり、食べたいままに食べることでも、楽しみを切り捨てることでもありません。
ダイエットでも、食べなさすぎは続かず、食べすぎも体を崩します。
気前のよさは金銭の使い方で、けちと浪費のあいだに立ちます。
こうして見ると、中庸は一つの徳だけでなく、性格的徳全般を貫く原理だとわかります。

中庸は「ちょうど中間」ではない|私たちにとっての中間

中庸を誤解しやすいのは、算術的な中点だと思ってしまうからです。
実際には、中庸は誰にとっても同じ数値ではなく、「私たちにとっての中間」です。
食事量を考えても、大食漢の運動選手と一般人で必要な量は違いますし、同じ判断でも、場の緊張や相手との関係によって、ちょうどよい強さは変わります。
ここが「足して二で割る」と違うところです。

この点は、日常の小さな判断でよく見えます。
会議で発言するなら、言いすぎれば無謀になり、黙りすぎれば臆病になりますが、正解は常に同じではありません。
その場で何が求められているかを見て、短くても芯のある一言を選ぶことが中庸です。
アリストテレスの中庸は、機械的な平均ではなく、状況と人に即して選び取る実践知だと押さえておきましょう。

ただし、中庸の原理は万能ではありません。
殺人・盗み・姦淫のように、それ自体が悪であって、「ほどよく行う」余地のないものもあるとアリストテレスは述べます。
ここに例外を認めることで、中庸を何にでも当てはめる単純な理屈にせず、倫理の輪郭をはっきり保てるのです。

思慮(フロネーシス)と観想(テオリア)の生

アリストテレスにおいて、徳は抽象的な規則の暗記ではなく、個別の場面で何が善いかを見抜く力によって生きたものになります。
その中心にあるのが思慮(フロネーシス)であり、さらに第10巻では観想(テオリア)的活動が人間に可能な最高の幸福として置かれます。
実践的生と観想的生は切り離された二つの道ではなく、同じ幸福論の中で段階をなしているのです。

思慮(フロネーシス)=実践的な知恵

思慮(フロネーシス)は、状況ごとに変わる中庸を見極めるための実践知です。
どれだけ立派な規則を持っていても、目の前の事情、人間関係、力関係まで含めて判断しなければ、善さは簡単に空回りします。
経験豊富な人がマニュアル通りでは対応できない場面で、とっさに適切な一手を打てることがありますが、アリストテレスが思い描くのはまさにその「現場の知恵」でしょう。

ここで中庸は、単なる平均値ではありません。
勇気が本当に勇気であるために必要な踏み込み方、節制が節制として働く引き方は、いつも同じではないからです。
だからこそ、思慮ある人フロニモスの判断が基準になるのであり、中庸は本の上の定義ではなく、生きた判断の中で立ち上がるのです。

なぜ思慮がなければ徳は誤るのか

アリストテレスが重視するのは、フロネーシスが他の徳を正しく機能させる中心的な知性的徳だという点です。
勇気は思慮を欠けば無謀な蛮勇に傾き、気前のよさは判断を失えば浪費に変わります。
つまり、徳は個別に並んでいるだけでは足りず、何に向けて、どこまで、いつ行うかを決める統一の軸が必要です。

この発想を押さえると、徳倫理学が「よい性格を持てばよい」という単純な話ではないことが見えてきます。
徳の統一とは、諸徳がばらばらの美徳ではなく、互いに支え合って働くという理解です。
思慮があるからこそ、勇気も節制も気前のよさも、それぞれの場面で過不足なく発揮されるのです。

観想(テオリア)的生活が最高の幸福とされる理由

『ニコマコス倫理学』第10巻でアリストテレスは、人間に可能な最高の幸福は観想(テオリア)的活動にあると結論します。
観想とは、永遠不変の真理を理性で見つめる活動であり、それ自体が目的です。
何か別の報酬のために行うのではなく、ただそれを営むことに完成がある。
人間の中で最も神的な部分である理性が、もっともよく働く生き方だからです。

もっとも、これは実践的な生を切り捨てる話ではありません。
現実の人間は他者との関わりの中で暮らし、勇気や節制のような性格的徳を土台にした実践的生も欠かせないからです。
好きなことに没頭して時間を忘れる経験を思い浮かべると、観想がなぜ「それ自体のための活動」と言われるのか、少し実感しやすくなります。
実践的生の上に観想的生が重なる二層構造こそ、アリストテレスの幸福論が現実離れしていない理由です。

現代倫理学から見たアリストテレス倫理学

アリストテレス倫理学は、現代倫理学の中で「どんな行為が正しいか」よりも「どんな人になるべきか」「どう生きるべきか」を前面に出す立場です。
行為の規則を先に置くのではなく、人柄や徳の形成を中心に据えるため、義務論や功利主義とは問いの立て方そのものが異なります。
そこにこそ、この思想が今なお読み直される理由があります。

「正しい行為」より「善き人」を問う倫理学

義務論では、嘘は原則として避けるべきか、約束は守るべきかといった形で、行為の正しさがまず問われます。
功利主義も、行為が生む結果を計算しながら、全体として最善かどうかを判断します。
これに対してアリストテレス倫理学は、そうした単発の判断を支える土台として、正直さ、勇気、思慮分別のような徳を身につけた人間を問題にします。
つまり焦点は「行為」ではなく「人柄(性格)」にあります。

たとえば、嘘をついてはいけないという規則と、嘘によって多くの人が救われるなら許されるのではないかという計算がぶつかる場面を考えてみましょう。
義務論は規則の側から、功利主義は結果の側から答えようとしますが、アリストテレスなら正直で思慮ある人はこの状況で何を選ぶか、というかたちで問い直します。
ここで重要なのは、答えを機械的な手順に還元しないことです。
迷ったときの万能の公式は出てきませんが、そのぶん、状況を見きわめる力や、日々の習慣を通じて徳を育てる視点が生きてきます。
ビジネスや教育の場で「人間力」や「品性」が語られるのも、この発想が現代に再び響いているからでしょう。

義務論・功利主義との立ち位置の違い

近代以降の倫理学では、カントの義務論とベンサム・ミルの功利主義が大きな流れをつくりました。
どちらも「どんな行為が正しいか」を中心に据える点では共通していますが、その根拠は異なります。
義務論は道徳法則への服従を重んじ、功利主義は幸福や利益の総量を重視します。
アリストテレス倫理学はそのどちらでもなく、人生全体をどのように形づくるか、徳をどう涵養するかを問題にする立場です。

ただし、この立場には批判もあります。
規則としては曖昧で、「迷ったときどうすればよいか」に対して「思慮ある人がするように行え」としか言えないように見えるからです。
とはいえ、その曖昧さは欠点であると同時に強みでもあります。
人間の判断は、条文のような規則だけでは追いつかない場面が多いからです。
長所と短所の両方を見ておくと、アリストテレス倫理学を特定の立場として押し付けずに読めます。
ルールの明快さを求めるなら義務論や功利主義が強い。
人生のかたちそのものを問いたいなら、徳倫理学のほうがよく応えてくれます。

20世紀の徳倫理学の復興と現代的意義

20世紀半ばまで、徳倫理学は義務論と功利主義の陰に隠れた存在でした。
その流れを変える契機になったのが、エリザベス・アンスコムの1958年の論文『現代道徳哲学(Modern Moral Philosophy)』です。
ここで彼女は近代道徳哲学のあり方を批判し、義務や規則だけを軸にする枠組みに疑問を突きつけました。
古代の発想を単なる懐古ではなく、現代の議論に戻した点に、この論文の重みがあります。

その後、アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代(After Virtue)』(1981年)が徳倫理学への関心を大きく高めました。
現代社会の断片化した価値観の中で、人は何を基準に生きるのか。
この問いに対して、徳倫理学は制度や規則の外側から、人格形成と共同体の意味を考えさせます。
アリストテレス倫理学は博物館の遺物ではなく、今日の倫理学の有力な選択肢です。
義務論・功利主義と並べて学ぶことで、私たちは「正しい行為」だけでなく「よく生きること」まで視野に入れられるようになります。

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水上 理沙

応用倫理学の研究者出身。生命倫理・AI倫理の分野で企業研修講師も務め、思考実験を通じて倫理的問いを「自分ごと」にする解説を得意とします。

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