哲学概念

シニフィアンとシニフィエとは?言語の恣意性を解説

更新: 堀内 聡介
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シニフィアンとシニフィエとは?言語の恣意性を解説

ソシュールの記号論は、音のかたちであるシニフィアンと概念であるシニフィエを分けて考えるところから出発します。哲学カフェで「湯」を英語に言いかえようとして、参加者と hot water しか出てこなかったことがありましたが、日本語で一語だったものが英語では二語になる、その切れ目の違いこそがこの考え方の入口です。

ソシュールの記号論は、音のかたちであるシニフィアンと概念であるシニフィエを分けて考えるところから出発します。
哲学カフェで「湯」を英語に言いかえようとして、参加者と hot water しか出てこなかったことがありましたが、日本語で一語だったものが英語では二語になる、その切れ目の違いこそがこの考え方の入口です。
いぬ、dog、Hund が同じ動物を指して誰も困らない事実を眺めると、音と意味の結びつきに必然はないのではないか、という問いが立ち上がります。
しかも『一般言語学講義』はソシュール本人の著作ではなく、1916年に弟子たちが講義ノートから再構成した本であり、オノマトペやブーバキキ効果、そして常連客に問われた「AIは言葉の意味を分かっているのか」という現代の疑問まで、100年前の洞察がいまも効く理由をこのあと確かめていきます。

シニフィアンとシニフィエ——記号を分ける2つの側面

ソシュールの記号は、音のかたちであるシニフィアンと、そこに結びつく概念であるシニフィエの二面から成ります。
ここで大切なのは、どちらも目の前のモノそのものではなく、頭の中で働く心的なはたらきだという点です。
実在の犬は記号の外側にあり、この区別を押さえると、言葉がどのように意味を生むのかが見えやすくなります。

シニフィアン=頭の中に響く音のかたち

シニフィアンは、空気を震わせる音波そのものではありません。
ソシュールが問題にしたのは、耳に入った物理音ではなく、聞き手の内側に立ち上がる「聴覚映像」でした。
同じ「犬」という語でも、声の高さも訛りも話し手ごとにばらつきますが、それでも同じ語として受け取れるのは、個々の波形ではなく、共有された型があるからです。

この点は、哲学カフェで参加者に「犬」と紙に書いてもらったときにも実感しました。
筆跡は驚くほど違うのに、誰もそれを別の語とは読まないのです。
紙の上の字形は千差万別でも、読む側はその背後にある「犬らしい音のかたち」を自動的に補ってしまう。
ここに、記号が単なる物理的な線や音ではなく、心の中で保たれる形式だという事情が表れます。

元IT企業勤務時代、音声認識の仕様検討でも同じ問題にぶつかりました。
同じ語なのに波形がまるで違う。
そこで初めて、音声を「音そのもの」ではなく「聴覚映像」として捉える発想に膝を打ったのです。
機械が拾うのは揺れですが、人が聞いているのは、その揺れから立ち上がる型なのでしょう。

シニフィエ=そこに結びつく概念

シニフィエは、実在の犬ではなく「犬という概念」です。
目の前にいる茶色い犬を見ているとき、私たちの意識の中で働いているのは個体そのものではなく、「犬とはこういうものだ」という概念のまとまりです。
ここを混同すると、後で出てくる恣意性の議論がずれてしまいます。
記号が結ぶのはモノと語ではなく、音のかたちと概念だからです。

両者は紙の表と裏のように切り離せません。
音だけを取り出せば、意味を持たない響きに落ちますし、概念だけを取り出そうとしても、言語的な輪郭なしにはぼやけてしまう。
日常では見えにくいのですが、意味とは最初からこの結合の上に成り立っているのです。
シニフィアンが「聞こえ方」の側なら、シニフィエは「わかり方」の側だと言い換えてもよいでしょう。

だからこそ、「犬」と「cat」を取り違えないのではなく、そもそも日本語の「犬」という音のかたちが、日本語話者の中で犬の概念を呼び起こす、という順序で理解する必要があります。
語を覚えるとは、モノの名札を貼ることではありません。
音のかたちと概念の結び目を、頭の中に作ることなのです。

「実物の犬」は記号の外側にある

実物の犬、つまり指示対象は、ソシュールの記号の外側にあります。
ここは誤解されやすいのですが、記号論が扱うのは「言葉とモノの対応表」ではありません。
あくまで「音のかたちと概念」の対応であり、名称を対象の箱に貼るだけの発想とは決定的に違います。

この区別が見えてくると、なぜ「いぬ」「dog」「Hund」「chien」が同じ動物を指しても不思議ではないのかが腑に落ちます。
違っているのはモノではなく、各言語の内部で結ばれたシニフィアンとシニフィエの組み方です。
つまり、意味は外界の物体に直接ぶら下がっているのではなく、言語体系の中でできあがるのだと考えてみてください。

スマートフォンの通知音を聞いて、内容を反射的に予期する経験も、同じ構造です。
あの短い音そのものがメッセージなのではなく、音のかたちが「LINEかもしれない」「仕事の連絡かもしれない」という概念を呼び起こす。
耳に届くものと、心に立ち上がるものが結びついた瞬間に、記号ははじめて働きます。

言語の恣意性とは何か——「いぬ」が犬である必然性はない

言語の恣意性とは、シニフィアンとシニフィエの結びつきに自然的でも必然的でもない絆しかない、という主張です。
ここで問われているのは音そのものと概念の関係であって、実在の犬がどうこうという話ではありません。
この切り分けを外すと、恣意性はたんに「好きに名づけてよい」という意味だと誤解されやすくなります。

音と意味を結ぶ「自然な絆」はない

日本語では犬を「いぬ」と呼び、英語では dog、ドイツ語では Hund、フランス語では chien と呼びますが、どの話者もそのことで不都合を抱えてはいません。
音がこれほど違っても日常会話は成立するのですから、音と意味のあいだに一本の正しい結び目が最初からあるとは考えにくいでしょう。
むしろ、私たちが当たり前のように受け入れている多言語のずれそのものが、恣意性のいちばんわかりやすい証拠になります。

海外の取引先とやり取りしていると、日本語の「よろしくお願いします」に対応する語が見つからず、毎回訳し方に迷うことがあります。
依頼でも挨拶でも感謝でもない、あの曖昧な働き方は、語の切れ目が言語ごとに違うことをよく示しています。
哲学カフェで「今日からこの飲み物を別の名前で呼びましょう」と提案したとき、30分もしないうちに誰も守れず元の語に戻りました。
恣意的であるのに、勝手には動かせない。
その逆説が、ここで見えてきます。

だからといって個人が勝手に変えられるわけではない

恣意性は「言葉は好き勝手に決められる」という意味ではありません。
明日から犬を「がぶ」と呼んでも、その場で通じるわけではないし、話者は使う言語を自由に選べないからです。
記号は個人の好みで作られるのではなく、すでにある体系に入っている以上、ひとりの意志で抜け道を作ることはできません。

ただし、言語は世代をまたぐ時間の中では必ず変化します。
個人には動かせないのに、共同体の長い時間の中では動いてしまう。
この不思議な両立を支えているのが恣意性です。
恣意性は「固定されている/変わる」という対立を壊す概念ではなく、その両方を同時に成り立たせる土台だと見るほうが、ずっと正確でしょう。

恣意性を支えているのは共同体の慣習

言葉が結びつく先を決めているのは、個人の意思ではなく共同体の慣習です。
だからこそ、言葉は私たちにとって外から与えられた拘束として現れます。
自由に見える音の選択の背後で、実際には「そう言うものだ」という共有された規則が働いているのです。

この視点に立つと、恣意性は単なる気まぐれではなく、社会の中で記号が機能するための条件だとわかります。
誰か一人が好きに変えるのではなく、多数が長いあいだ使い続けることで、音と概念の結びつきは保たれ、同時に少しずつ動いていく。
言葉の不変性と可変性は、共同体の慣習の中でようやく両立しているのです。

恣意性への反論——オノマトペとブーバキキ効果はどこまで有効か

オノマトペとブーバキキ効果は、ソシュールの恣意性テーゼに向けられる代表的な反論です。
もっとも、その二つを持ち出せばテーゼがただちに崩れるわけではありません。
むしろ、言語の音と意味の結びつきには、体系全体を覆すほどではないにせよ、局所的な動機づけが混ざると見たほうが実態に近いでしょう。

オノマトペは反例になるか

最も素朴な反論はオノマトペです。
擬音語は音を写し取っているのだから、音と意味には自然な絆があるのではないか——この直感はかなり強い。
筆者も外国語の擬音語一覧を見たとき、犬の鳴き声が「ワンワン」「bow-wow」「wau-wau」と割れる事実に驚きました。
写生のつもりが、じつは各言語の音体系というフィルターを通した“方言”だったわけです。

鶏の鳴き声も同じです。
日本語は「コケコッコー」、英語は cock-a-doodle-doo、フランス語は cocorico と分かれる。
聞こえている現象は近くても、切り取り方は一致しません。
だからオノマトペは、自然音をそのまま運ぶ透明な窓ではなく、音の聞こえ方を言語ごとに整形する装置だと考えるほうが筋が通ります。

ブーバキキ効果が示す音象徴の偏り

ただし、より手強い反論がブーバキキ効果です。
丸い図形と尖った図形に「ブーバ」「キキ」の名を割り振らせると、約95%が丸い方をブーバと答える。
ここでは、言語ごとの差を超えて、音と形のあいだに偏った対応づけが生じています。
哲学カフェでこの2図形を配ったとき、12人中11人が同じ答えを出し、場がざわついたことがありました。
理屈より先に、体で納得が起きる瞬間です。

とはいえ、この事実は恣意性テーゼの即死判定にはなりません。
音象徴が働く語は、語彙全体から見れば少数にとどまります。
ソシュールもオノマトペの存在そのものを否定したのではなく、原則を揺るがすほどの規模ではないと見ていました。
つまり、例外があることと、体系の基礎が例外で説明できることは別問題なのです。

絶対的恣意性と相対的有契性の区別

ここで有効なのが、恣意性には程度差があるという整理です。
「19(dix-neuf)」は dix と neuf の合成として相対的に有契ですが、「20(vingt)」は分解できず絶対的に恣意的です。
すべての語が同じ濃度で恣意的なのではなく、内部に動機づけを持つ語と、そうでない語が並んでいる。
この差を見落とすと、反論は過大評価にも過小評価にも傾きます。

したがって、オノマトペやブーバキキ効果は、恣意性テーゼを崩す反証というより、その射程を精密にする材料です。
「言語のすべてが強く恣意的」とは言えず、「体系の基底が恣意的で、その上に部分的な動機づけが乗る」と捉えれば、反論はむしろ理論を現実に近づけます。
ここを押さえると、恣意性は単純な断言ではなく、構造を説明するための細かな区別だと見えてきます。

意味は差異から生まれる——ラング・パロールと「価値」の考え方

ラングは、個々の人がその場で話した言葉ではなく、共同体の中で共有される言語の体系です。
これに対してパロールは、実際の会話や発話としてその都度現れる言葉の使い方を指します。
ソシュールが見ようとしたのは、目の前の発言の巧拙ではなく、その背後で意味を支えている体系そのものでした。

意味は単語の内側に最初から入っているのではなく、他の語とどう違うかによって立ち上がります。
哲学カフェで「青」と「緑」の境界を参加者に引かせると答えが割れ、信号機の色をどう呼ぶかでも意見が分かれたことがありましたが、あの揺れはまさに切れ目が現実に埋め込まれているのではなく、言語側が引いていることを示しています。
元IT企業でデータベースのカテゴリ設計を担当したとき、どこで項目を分けるかが最後まで決まらず、分類とは差異の設計なのだと後になって腑に落ちました。

ラングとパロール——体系と発話を分ける

この区別が示すのは、言語学がまず追うべき対象が、目に見える発話の集まりではなく、それらを成立させるルールの網だということです。
誰かが何を言ったかは無数に変わりますが、そこで選べる語や結びつけ方には共同体ごとの制約があります。
ラングはその制約の全体であり、パロールはその上に現れる個別の実践です。

だからこそ、ソシュールの関心は「この人はどう話したか」ではなく「この言語では何が区別として働いているか」に向かいました。
意味の研究を発話の偶然から切り離し、共有された体系に置き直したところに、後の構造主義へつながる出発点があります。

語の値打ちは隣の語との関係で決まる

ソシュールが価値(valeur)と呼んだのは、語が単独で持つ実体ではなく、体系の中で占める位置のことでした。
英語では生きた羊を sheep、食用の肉を mutton と分けますが、フランス語では mouton の一語で足ります。
この違いは、語が現実をそのまま写しているのではなく、共同体がどこに線を引くかで意味の輪郭が変わることをはっきり示します。

日本語でも、「水」と「湯」は別の語として使い分けられるのに、英語では water の一語に収まります。
温度は本来なめらかにつながった連続体ですが、言語はそこに境界を入れるのです。
つまり恣意性は、語と物の結びつきだけでなく、世界の切り分け方そのものに及んでいます。

共時態を先に見るという方法上の転回

この見方をさらに押し進めると、ソシュールが重視した共時態と通時態の区別に行き着きます。
通時態は語の歴史的変化を追う研究で、当時の言語学では語源をたどる姿勢が主流でした。
これに対して共時態は、時間の流れをいったん止め、ある時点で言語体系がどう組み合わさっているかを断面として見る方法です。

なぜそれが必要だったのか。
語の由来を知るだけでは、いまその語がどんな差異の中で働いているかは見えないからです。
共時態を先に置くことで、意味は歴史の残骸ではなく、現在進行形の関係の中で生まれると捉え直せます。
チェスの駒が木や金属の素材で決まるのではなく、盤上で他の駒とどう位置を取り合うかで価値を持つように、語もまた体系の中の位置関係で値打ちが決まるのです。

『一般言語学講義』はソシュール自身の本ではない

1916年に刊行された『一般言語学講義』は、ソシュール自身が書き下ろした本ではありません。
ソシュールは1913年に没しており、この書物は没後3年に弟子たちが講義資料をまとめて編んだ編集物です。
しかも、その編纂にあたった2人の弟子は、当の講義に出席していませんでした。

没後3年、弟子が編んだ本

『一般言語学講義』が1916年の刊行であるという事実は、読み始めの印象をかなり変えます。
多くの入門書は一冊の完成した理論書のように扱いますが、実際にはソシュールの死後に公刊された編集テキストであり、著者本人が最終稿として整えた本ではありません。
ここを押さえるだけで、「ソシュールはこう言った」という断定の響きに、少し慎重さが必要だと見えてきます。

元になった講義は、1906年から1911年にかけてジュネーヴ大学で3回行われました。
編纂した2人の弟子は、その講義に出席していなかったという点も見落とせません。
つまり、彼らは本人の直筆原稿を清書したのではなく、残された記録を集め直して一冊に仕立てたのであり、そこにはどうしても再構成の判断が入り込むのです。
哲学カフェでこの成立事情を話したとき、「じゃあ今まで読んでいたのは誰の思想なのか」と場が静まったことがありました。
まさに、通説を疑う入口になる瞬間でした。

講義ノートから再構成されたテキスト

この本の中身は、学生たちの講義ノートから再構成されています。
ノートは断片的で、書き手によって強調点も違うため、そのままでは一冊の流れる議論になりません。
そこで編纂者は、講義の順序を組み替え、説明をつなぎ、原資料にない記述も補っていきました。
読者が手にしているのは、単独の作者が一気に書いた書物ではなく、複数の手を経て整えられたテキストだということです。

この成立事情は、入門書を3冊読み比べたときに、同じ図式の説明なのに少しずつ食い違って見えた経験ともつながります。
あれは単なる説明の雑さではなく、もともとの資料が再構成を前提にしているからこそ起きる揺れだったのだと、あとで腑に落ちました。
だからこそ、入門書を読むときは「これは講義録の再編であり、本文の一語一語をそのまま本人の確定的な発言とみなしてよいのか」と一度立ち止まる姿勢が要ります。
それでも、ここまでの議論が無効になるわけではありません。
むしろ、言語学の基本線をつかむうえでは、成立過程を知ったうえで読むほうがずっと誠実です。

1996年の草稿発見が変えたもの

1996年に本人の自筆草稿が発見されると、講義録との差異を検討する作業が一気に進みました。
何がソシュール本人の主張で、どこからが編纂者による再構成なのか。
この問いは、いまも研究上の論点として生きています。
草稿の発見は、『一般言語学講義』をただ否定したのではなく、むしろその成立の層を見分ける視点を与えたのです。

ここで見えてくるのは、意味が単一の作者にすっきり還元されないという後年の議論を、この本そのものが先取りしていることです。
しかも、そのことは次に扱うポスト構造主義への伏線にもなります。
ソシュールを読むときに必要なのは、権威ある一冊としてうのみにする態度ではなく、一次資料の層を意識しながら参照する構えでしょう。
そうして初めて、入門書の断定をそのまま受け取らずに、どこまでが確かな共有地盤で、どこからが編集の産物かを見分けられるようになります。

構造主義から生成AIまで——ソシュールの射程

ソシュールの射程は、言語学の内部にとどまりませんでした。
ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエという見取り図は、言葉の意味を固定された実体ではなく差異の網として捉える発想を、人類学や批評理論へも運びました。
そのため、この章で見るべきなのは理論の細部だけではなく、なぜ100年前の考え方が今なお使われ続けるのか、という点です。

レヴィ=ストロースと構造主義の展開

ラングとパロールの区別は、人類学に移されることで力を増しました。
クロード・レヴィ=ストロースは、婚姻や神話、親族関係のように一見ばらばらに見える事柄の背後に、個々の行動ではなく関係の配置を読む視点を持ち込みました。
意識される慣習としてのパロールを追うだけでは見えない、無意識の構造としてのラングを探る発想です。
ここでソシュールは、言語の理論家から、人間文化を差異の体系として読むための出発点になりました。

この見方が重要なのは、表面に見える内容より、配置や対立のほうが意味を決めると示したからです。
たとえば親族制度でも、個々の家族が何を思っているかより、交換・禁忌・役割の組み合わせが全体を形づくります。
哲学カフェで「AIは意味を分かっているのか」と問われたとき、話が2時間続いたのも、結局は意味を単独の中身ではなく関係の束として考えると、議論の射程が一気に広がるからでした。
100年前の概念が、いまも会話を動かすのです。

デリダらによる批判的な引き継ぎ

もっとも、構造があるから意味が安定するとまでは言えませんでした。
シニフィアンとシニフィエの結合が恣意的なら、記号は確かな中心に結びつかず、意味はつねに別の記号へと送られ続けるのではないか。
ジャック・デリダらのポスト構造主義は、この不安定さを批判ではなく継承の形で押し広げました。
構造を読むこと自体を否定したのではなく、その構造が最終的な到達点を持たないかもしれない、という緊張を前景化したのです。

この展開は、構造主義が示した「体系」を、より揺れを含むものとして見直す働きを持ちます。
意味は辞書の中で止まらず、文脈に応じてずれ、延び、別の差異に接続されていきます。
だからこそ、概念を一義的に押さえたつもりでも、読解や対話の場では別の解釈が立ち上がるのです。
安定した意味を前提にすると見落とす揺らぎを、ポスト構造主義はむしろ中心課題にしました。

分布意味論と言語モデルへの遠い反響

現代の言語モデルに目を向けると、この発想との遠い反響が見えてきます。
語を巨大なベクトル空間の座標に置き、周囲の語との関係だけで意味を扱う仕組みは、「意味は差異のネットワークである」という考え方にかなり近いからです。
元IT企業で単語のベクトル表現を扱う案件に関わったとき、意味を座標として扱う発想に既視感を覚えました。
あとから振り返ると、それは差異の体系を数理的に触っていた感覚に近かったのだと思います。

ただし、ここで「ソシュールがAIを予言した」と言い切るのは早計です。
関心の重なりと方法の類似はあるものの、ソシュールの問題は言語の記号論であり、言語モデルの目的は計算上の推定です。
前提が違う以上、同じものとして扱うべきではありません。
とはいえ、意味を孤立した実体ではなく、周囲との関係で捉える視点は、生成AIを理解するうえでもおすすめですし、仕事の分類や肩書き、診断名の線引きを見直す思考ツールにもなります。
カテゴリの切れ目は現実に刻まれているのではなく、しばしば体系の側に引かれている。
そう考えてみてください。

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堀内 聡介

哲学カフェ主宰歴10年以上。元IT企業勤務の経験を活かし、抽象的な哲学概念を日常の意思決定やテクノロジーに結びつける解説を執筆します。

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